壮絶な最期だった。これが学童横綱、鉄棒大車輪の名手、校門の前で何人もが『俺におんぶさせてくれ』と、背中を構えて、彼の登校するのを待っていた、あの(株)大傳丸初代社長 故大野義彦の死に際・・・
長年の喫煙による肺気腫が肺がんに転じ、本人曰く、「いいから鼻をつまんで、口を押さえてみろ・・・それくらい苦しいんだ」・・・
36年間、親父の泣き言など聞いたことのなかった私に対して、さらに「俺はもう長くねえ」と、まるで余命を計っているかのように追い討ちをかけた。
生への拘りを思い起こしてもらいたいがために言った、私の言葉はこうだ。「そんな無責任な中途半端なことで自分の人生に納得できるのか。後に残る者に、何か残しておかずに死ねるのか。」・・・
亡くなる何日か前に、お袋からひとつの箱を手渡された。その中には、親父が毎日服用していた、シワクシャの薬の袋が何枚も入っていた。その一枚一枚の裏側に記されていたのは、『し』を『ひ』と書いたり、また逆に『ひ』を『し』と書いたり、誤字脱字の多い、力のない、しかし紛れもない、見慣れた親父の文字だった。
私は、何てことを言ってしまったんだろうという、自責の念に襲われた。人生最大の、そして最後になる戦いに挑んでいる真っ只中に、苦しさに耐えながら、やっとの思いで文章を書き上げたんだ。・・・
後に残るこんな私のために・・・
ページ番号がふってあるわけでもない。どれから始まり、どれで終わるのかもわからない。私なりに11章にまとめてみた。そして何とか世に出したいと思った。およそ半世紀に渡り、東京湾の漁師として生き抜き、外づらは良いが、身内には偏屈な変わり者だった親父が、人生最期の時に、素直に後に残る者たちのために残してくれた手記である。このサイトに立ち寄られた方は、是非一読いただきたく切に願う。
平成21年4月1日
(株)大傳丸 代表取締役 大野和彦
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